こちらのページには以前、自分が書いた記事をあげています。ほとんど海士町にきて、1年目も2年目のものです。

 日本語も文書もとても恥ずかしいですが、どうやって今の考えを持つようになったかを自分でも確認のためにここに並べてみました。

若者・馬鹿者・よそ者 2008.5

私は今,日本の観光協会で働いています。

お客さんに民宿を案内するとき,

「お客様,携帯の繋がる民宿と,繋がらない民宿,どちらにいたしましょうか?」と聞きます。

私が働いている所には,携帯が繋がらない民宿もあります。

携帯が繋がらない民宿で,日常から離れてゆっくりしたいお客さんもいらっしゃいます。

すっごい()島にあるんです。

 

その離島は,「海士」と言います。「海」に武士の「士」と書いて「海士」と読みます。島根県にあります。

島根県は,「日本人がどこにあるか分らない県№1」の県で,山陰にあります。

その島根県の日本海沖,60キロくらいのところに隠岐諸島があり,その中に海士はあります。

後鳥羽上皇が島流しされた場所です。

 

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6年前に留学生として来日した私は,

大学卒業後,東京で会社員をしていたある日,

「面白い島があるよ」と聞いて,初めて海士に遊びに行きました。

 

その時の私は,東京の会社で,仕事の面白さを実感できずに,「仕事なんてこんなもんさっ!」とくさっていました。

そんな私は,海士で,役場の研修生募集に会いました。

【この島で宝探しをしてみませんか】

私はそれにすぐにひっかかって,海士町で仕事をすることにしちゃいました。

 

私は,「若者」「馬鹿者」「よそ者」だったんです。

実は,この言葉は海士の町長さんの書いた本の中にある言葉です。

海士町では,「『若者』『馬鹿者』『よそ者』がいれば町は動く」と考えて,町おこしをしていたところでした。

分別のある大人ではなく,まさに,私みたいな, 

エネルギーだけ持て余して,向こう見ずに調子に乗って飛び込む,「よそ者」の視点を持った人 を求めていたのです。

 

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海士の職場に行ってみたら,机の上にパソコンが一台あるだけでした。

職場の窓から海と山が見えました。

海は静かで,「鏡のようだ」と小泉八雲が表現した入り江が,青い空を映していました。

 

「自由にやってくれ」とだけ言われた私は,全く仕事の指示がなく本当に苦しかったです。

原付でふらっと出掛けて,「この島ってどこに人がいるんかなぁ」と思って走りました。

何をしていいのか分らず,とりあえずは,ただただ島をグルグル回って過ごしました。

そのとき見たのは,毎日毎日,漁に出かける船,畑でがんばっているじっちゃん,ばっちゃんでした。

 

 

役場の先輩とイモ掘りの手伝いに行ったとき,初めて「じげもん」で作った「爆弾おにぎり」を食べました。

「じげもん」というのは,「地元の物」で,「爆弾おにぎり」は,外の仕事の時食べるでっかいおにぎりのことです。

「こんなに美味しいもの毎日食ってんの?ぜいたくだなぁ~!」と,うまいものを食っていなかった「よそ者」「若者」の私は思いました。

 

島の人が当たり前のように飲み食いしている「うまい宝」はまだまだありました。

魚のアラの煮付け,山菜の天婦羅,なまこの酢の物,肉の代わりにサザエを入れたカレーライス・・・。それに,船の上で食べるイカ刺しは最高です。

祭りの後の打ち上げで,漁師のたくましいじっちゃんたちから「飲め飲め」と酒を勧められて,酔いつぶれて,気がついたら朝だったこともあります。

 

離島の暮しは厳しくて,時化の時,海士は,完全に孤立してしまいます。

でも,島の人たちは,持っているものを融通しあって,おかげさま,お互いさまの精神で生きています。

季節ごとにやるべきことが分っていて自然と共に生きています。

「山が荒れると海も荒れるから」と言って,漁師さんが山に木を植えています。

風土がこの人々を創り上げたのでしょう。この人々の知恵こそが,本当の宝なのです。

 

私は,島の子供たちと英語キャンプをしたり,「国際化」についてのエッセイコンテストを企画したり,スリランカ行事体験ツアーを企画したり,何でもかんでも挑戦しています。失敗することもしょっちゅうです。

 

ある日,私は島で新しい宝を発見したんです。

スリランカでは「ゴトゥコラ」と言う有名な若返りのハーブが,島に生えていたんです。

島の人は,ただの草と思って誰も食べていませんでした。

今,このハーブで商品開発をすることが私の夢です。

 

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「よそ者」だった私は,よそ者の視点・発想を持ち続けたまま,もう今は「よそ者」ではなく,海士は私の居場所になりました。

人は,縁あって住むことになった場所で,一(しょ)懸命に生活することで居心地のいい場所を作ることができるのだと知りました。

 

最近では,スリランカの親戚の名前や顔も忘れてしまいました。

「あのばあちゃん,亡くなったよ。あなた子供のころよく可愛がってもらっていたじゃないの」と言われても思い出せなくて,スリランカの母に怒られることもあります。

でも「スリランカは自分の国だ」という気持ちは,ずっと心の根っこに持っています。

私は今,スリランカにとって,いい意味での「よそ者」になりました。

 

海士での宝探しの仕事を通じて,

「よそ者」の視点や発想があれば,20年にも渡る内戦で(すさ)んだスリランカでも,新しい宝を発見できるのではないか,と考えるようになりました。

海士のおかげで,スリランカに恩返しできる方法を知りました。

 

私は,いつまでも,

年をとっても「若者」で,

フレッシュな発想が出来る「よそ者」で,

お調子者の「馬鹿者」として  

挑戦して行きたいと思います。

 

ご清聴ありがとうございました。

頑張らない国際化 2007.11

“国際化”は最近よく耳にする言葉である。テレビや新聞を見ても、国際化していく日本社会、その中で私たちはどうあるべきか、どうするべきか、議論がたくさん行われている。それはすごくいい事だと思う。そのせいかもしれないけど“国際会館”行ってみたら、パチンコ屋だった、ということも私たちの周りでは、少なくない。そのぐらいこの言葉は私たちの日常に近くなったということでしょうか。

 私たちの周りにもたくさん国際人がいる。私は何カ国語も話せる、何カ国にも行ったことある。この国でこんなことした、あの国であんなことした、どこが切っても丸まる国際人だ。たとえば世界を股にかけるビジネスマンとか海外留学生とかである確かにそういう人達は日本の国際化の象徴的存在かもしれない。でもその人たちの話を聞くと、会社に“行って来いといわれたから”、その国の言葉や文化を勉強した。東京じゃつまらない、日本じゃつまらない、英語ぐらいしゃべらないとカッコ悪いという理由で外国へ行ったという方々多い。国際化のなか日本はこうあるべき、地方はこうあるべき、私たちの前で講演するのも、テレビ出てしゃべるのも、ほとんどこういう人たちではないでしょうか。その人たちはそれでいいと思うのですが、国際化=英語、国際化=海外というイメージが一部の人達が作った壁だと思う。

そういう国際人に比べて、大学時代私の隣の家に住んでいたおばあちゃんが立派な国際人だと思う。なぜかというと、私と話したおばあちゃんが、スリランカって一年中暑い国としった。冬になったら、ちゃんと冬の着るものあるの、ちょっと古いけどもらいなさいって服を渡した。おばあちゃんが英語もしゃべらない、世界のことをそんなしっているわけでもない。それは誰にでも優しいおばあちゃんが私にも優しかっただけの話。

 今日話すのは、そのエリートが話す難しい国際化ではなく、私たち一人一人の国際化についてだ。それも一つの出来事で私が思ったことだ。それはこの前松江にいったときの話。松江にスリランカ料理屋さんがあることが知り行ってきた。エスニック料理というとその国のマースターが作る料理というイメージが強い。でもこの店が少し変わっていた。マースター日本人だった。それもそんなに不思議ではないかもしれない。イタリアンパスターの日本人チェフがいれば中華達人の日本人チェフもいる。それと彼の違うところは、彼はスリランカ料理を勉強するためにスリランカに行ったわけではない。青年海外協力隊員としてスリランカにいった。スリランカでもとても田舎の地域の子供たちに二年間半スポーツを教えたみたいだ。その間スリランカの料理も勉強して、シンハラ語も(スリランカの一つの言語)しゃべる。私がご飯食べようとしたとき“手で食べますか?”とスリランカ語で聞き、スリランカと一緒で食べる前に手洗いするための、水のボールを出してくれた。言葉ではなく、その国の文化、その国の人の気持ちをわかるような、とても不思議な感じだった。

 今日彼の話を書いたのは、彼がスリランカの料理屋をやっているからでも、彼のかぼちゃカレー最高にうまかったからでもない。彼の行動は私たちに大きいことを考えてくれるからだ。彼のスリランカでの仕事の中では、料理の勉強はなかったはず。シンハラ語もあそこまで話さなくすんだと思う。でもその国の人の心を分かろうとしていたから、料理もできたと思う。シンハラ語も話せたと思う。難しい言葉で国際化を語る国際人と彼の大きな違いがそれだと思う。

私たちの周りでは“今から国際交流します”国際化に触れましょう!はいスタートのような国際交流が多い。難しいテーマで“何とか何とか国際と日本”講演、テレビ番組も多い。それを見て、なるほど、そうなんだ、というところで終わっている。私たち、一人一人にできる国際化って、ないでしょうか。一般の私たちに、長い間海外言ってその国の文化に触れるチャンスが中々ない。それでも私に服をくれたおばあちゃんのように、心を開くだけで国際化をできるのです。大事なのは私たち、人間にたいしてどれぐらい 心を開けるかということだと思う。

 私はこの島で頑張らない国際交流をしている。それは、船で一緒になった島のおばあちゃんと世間話をすることかもしれない、直会でおじいさん達とお酒を飲むことかもしれない。なぜかというと、人の心を通じて国際化を始まると私が信じているからだ。その意味で私に服をくれたおばあちゃんも、スリランカの料理屋をやっているマースターの立派な国際人だと思う。

 

スリランカの話 2008.2

特集(スリランカ編)

来日して6年目の私は、長い時間お風呂に入ることも、畳の上でごろごろすることも、柳葉魚をつまみに、麦焼酎飲むことも大好きになっていた。そんな僕が三年ぶりに帰国した。

社会人になって、初めての帰国、海士町にきてから初めての帰国。その旅で経験した、様々な出来事、少し紹介したいと思う。

 

結婚式

 私は今回の帰国したのも、兄の結婚式。私も結婚式に参加するのは7年ぶり。私たちの家族がシンハラ、仏教の家族のため、結婚式の習慣もその通り行われた。結婚式のクライマックスは「ポールワセロモニー」という。簡単に言えば、新郎、新婦をステージに乗せられ、そこで色々な習慣が行われる。新郎が新婦にミルクライス(キリバタ)を食べさせる。ミルクを飲ませる。白い服地を着させる。それから、二人の小指を糸で結び、その上から水を流す。それから指輪の交換。

 この習慣一つ、一つに深い意味が存在すること、今回初めて分かった。それは新郎が新婦を一生守るということを言葉だけではなく行動で約束するということ。それからスリランカの挨拶でご両親はじめ全ての年上の親戚に挨拶する。それは、今まで育ててくれてありがとうという意味でもある

結婚式の2日目は新婦の家族が、新郎の家族に招待される。2日目はホームカミング(Home Coming)と呼ばれ、新郎の内に新婦を連れてくることを意味する。最近になって、ホテルで結婚式をあげることになったけど昔は一日目も2日目も家で結婚式をやることが一般的だった。たくさんの人に家で食べ物を作り、座る場所を準備し、とても面倒くさいことである。日本だったら、一日で終わることに、一ヶ月も二ヶ月も前から準備する。結婚式を近づいてから、近所の人や親戚の人が家を訪れて、手伝ってくれる。紅茶を飲みながら、大声で笑いながら、昔話をしながら、仕事している。「例えば、もう結婚する歳になったけど、私はこの子のおむつも変えたことがあるなどその話が様々」

 式場で結婚式をあげたら、こんな無駄な動力をいらないと思うかもしれないけど、彼らの楽しみは、結婚式よりもそれまでのプロセスである。日本では4億円の結婚式、6億円の結婚式といって、豪華な結婚式をテレビででも、放送する。4億円でも、6億でも式場で上げる結婚式ではスリランカの人たちがハッピーじゃないということが分かった。結婚式は新郎新婦が結ばれる行事でありながら、二つの家族が一緒になることでもある。またお世話になった人にありがとうといえる、チャンスでもある。

 

迎えにきた友達

  久しぶりに友達に会えることも、私にとって、帰国後の楽しみである。私の実家が空港から遠いため、私は首都の友達に車で空港に来るようにお願いした。彼が私を迎えにきてくれたのですが、彼と一緒に彼の親も来ていた。

 お前だけにきて欲しかったのに、なぜ親も一緒なのと聞いたら、

「お前を迎えに来たわけじゃない、親が夜一人で車を運転することが危ないといってうるさいから、きただけだよ。私は、驚きと友達の親に申し訳ないという気持ちを隠せなかった。日本にいて、毎日スリランカの二ユースを見ても分からない、現状を一瞬で分かったような気がした。

 

カルチャーショック リターンス

 勿論カウンターカルチャーショックもたくさんあった。例えば、高速道路がないスリランカでは、下り坂の車も、上り坂の車も同じ、道路を走る。車を追い越したいときは、反対側の線を走るのもしばしば。運転手の隣の席に座っていて、前に来る車にもう衝突したと思い、目をつぶって、大声を出してしまった。とても恥ずかしい思いだった。運転手、はじめ周りの人に、「どうしたの?」聞かれ

「すみません、悪い夢を見ていたので」とごまかしたけど。

 

命さえあれば

  なんといっても、戦争の恐ろしさ、肌に感じた旅でもあった。私が帰国した一週間後、大きなテロが起こった。テロを起こったのは、アヌラダプラという地方だったのですが、首都での安全対策も厳しくなった。首都に入り車全てを徹底調査することになった。

調査をするとき、車から降りて、全ての荷物を警察員に見せないといけない。私のI PODが大事件をおこしてしまった。まだI PODが珍しい、スリランカでは、それをとても不思議に思われた。それに、僕の顔色もアクセントも普通のスリランカ人にちょっと違うため、直疑われたと思う。結局30分くらい質問され、他のバスで首都に向かうことになった。

交通機関にある影響に以外でも、一般の人の日常生活に戦争により影響がとても大きいと感じた。物価がとても高く、3年前買った、同じものに二倍、三倍もお金払わないといけないことに驚きばかりだった。私は、仕事のことで、スリランカ在住日本人も何人かにあった。彼らが一声あげていったのも、戦争さえなければ、どんなに成長できる国かということだった。

「安心であれば、スリランカを応援したい、スリランカでビジネスをしたいという日本人もいっぱいいるよ」

戦争が現在生きている人の人生だけじゃなく将来生れてくる子供たちにも影響していることが分かった。

 スリランカの道路でよく目にしたのは、銃をもっている軍の人たちだった。彼らがテロから国を守るという大事な役割を致しているのだが、一、二歳の小さい子供も彼らを目にする。戦争というイメージを子供のころから頭に入る。テレビを見ても戦争に対する情報を見られる。子供の頃から戦争と一緒に生活しているといっても過言ではない。勿論、実際に戦争おこっている地域に住む子供については話すまでもない。

 

戦争がない、日本に住む、私たちがどのくらい幸せか、改めて実感した。今の日本の子供たちには、戦争でお父さんがなくなられた、お兄さんがなくなられたということがとても想像できないことだと思う。逆に言えば、命の大切さが分からないかもしれない。いじめなどの理由で簡単に自分の命を犠牲にするのも、それだからかもしれない。私もたった2週間で体験した戦争の怖さというものは、ほんの少しにしか及ばない。戦争と一緒に生まれ、戦争と一緒に死んでいく子供もそこにはいる。彼らにはちゃんとした食事もない、学校にも行けない、親もいないかもしれない、それでも彼らが命さえあればと思い一生懸命生きている。

 

お前の車はどこ

  先ほどもいったように、久しぶりにあう友達と昔話をすることも私のたびの第一の楽しみでもある。彼らは、日本にとても強い興味があり、一番の興味は車である。在日六年目で原付を乗っている、僕の心境が彼らにはとても理解できないものである。彼らがスリランカの社会のとても責任のある仕事している。仕事の内容よりはポスト(役職)の名前が気になる。私は社会人になっても、なぜ研修生なのかも彼らにはとても理解できないことだった。

彼らがそれぞれ人生の成長を図る基準というものも自分たちなりに作っている。

どんなにいい車を乗っているのか、どんなにいい給料がもらっているのか、どんなにきれいな奥さんまたは彼女がいるのか、人生の成功を図る基準である。仕事してお金をもらうことが大事なことであって、どんなことをしてお金がもらったということがあまり大事ではないみたい。

 

行きも帰りも

 私が乗った飛行機がマ―レ経由でスリランカにいった。私の隣に座っていた人も同じスリランカの人だった。彼の顔色がとても悪く、食事も何も取らなかった。後で分かったのは彼がいわゆる不法労働外国人だったこと。彼が日本にきて4ヶ月もたってないうちに、彼が働いた工場で逮捕されたみたい。70万円くらいお金をかけて、ビジネビザで来日したみたい。70万というのはスリランカでは簡単に手に入るお金ではない。そのために彼の家族が、土地を売り、高い利子でお金を借りたみたい。彼が泣きながら、親に対する思い、家族に対する思いを話した。彼の一番の夢は日本で稼ぐお金で親を仏陀が生れたインドに旅行させることだったみたい。

 日本に戻ってきて、成田空港で荷物を待っていたときもう一人に声をかけられた。

「あなたと同じ飛行機をのってきたんだけど、私に東京のイスラム教会がどこにあるのか教えていただけないか?」

 私が知らないけど、私は彼をインフォメーションセンターまでつれていった。彼もビジネスビザで来日したみたい。なんのためにきたかと聞いたら、働くためと答えた。日本で知り合いも誰もいないみたい。私は帰りの電車に時間が間に合わないため、インフォメーションセンターで彼と離れた。

 たくさんの人にとって日本は夢の国である。この国にこれば、お金持ちになり、帰国後豊かな生活ができると皆信じている。今回あったのはその中のたった二人だけ。外国人労働者の約4分の1ともいわれている不法労働者の中では5年、10年も日本に働いている人がいる。彼らが何年間日本に住んでも長い時間、風呂に入りことも、畳の上でごろごろすることも、焼酎飲んで、刺身を食べることも好きにはならないと思う。

 

いい意味での綱引き 2007.4


 私たちの島の綱引き大会が416日に桜満開の隠岐神社近辺で行われた。22回目になる隠岐島綱引き大会がキンニャモニャ祭りの次に一番大きいお祭りである。今年も、西の島、隠岐の島町からのチームも含めて27チームの参加を頂いた。私も北分区から参加した。綱引き大会の一ヶ月ぐらい前から練習を始めるチームもある。なぜ一ヶ月も前から綱引きを練習するのかを今回実際の試合に出てすごく分かった。普通に考えると若い力持ちが勝つと思うのですが実際にやってみてそれは、力でも若さでもないと肌に感じた。二回戦の私たちの対戦相手が“わしら同級生”というチームだった。48歳でそんな体大きい人もいなかった。それでも若いチームに負けずに大会の第三位まで勝ち上った。なぜ彼らがかったということが、綱引きのことを調べて分かった。綱引きというのは我をとる、癖を取る、次は正しい型にあわす。仲間が皆一体となったとき初めてどんな強いチームにでも勝てるということだ。

今回綱引きをして思ったことがある。それは“綱引きという言葉の使い方だ。私の国の新聞ではよく「綱引き」という言葉が使う。それは綱引きという競技がそんなに人気があるからではない。与党と野党の綱引き、政府と民間の綱引き、などなど“一つのものを二者でとりあって争うことに綱引きという言葉が使う。考えてみれば国そのものもそうです。爪で切れることが出来た、内戦という木も斧で切っても切れないような深刻な問題になっている。それは昔から今までの国のえらい人達が民族問題と綱引していたからと新聞とかで書かれている。

なぜ私たちいい意味での綱引きを強調しないでしょうか?スリランカの例を考えても、タミル、ムスリム、シンハラまたはその他の民族、それぞれが強い自分を持っている、強い癖を持っている。だから国として一つの型に合わせることが出来なくなっている。スリランカという同じ目標にみんなばらばらに動いている。一人一人、力があるけど、私たちが「わしら同級生」に負けたように、国としてどんどん送れていく。新聞が私たち、綱引き強いチームのように一緒になろう。民族性という強い自分を捨てて、何々じんという癖を捨てて、国を発展に引っ張りましょうという記事がいつ書けるのでしょうか?

 綱引き終わって、公民館で直会(なおらい)をやったとき、隣にいたおじいさん、

あなたこんな田舎にいて、親も心配しているでしょう、何かいいもの学んで帰りなさい″

といってくれた。今までの私には「綱引きというと″一つの目的に二つに分けて争うというイメージしかなかったが、今回の綱引き大会に参加して、いい意味での綱引きというものが少し見えてきたと思う。それはおじいさんがいった″何かいいもの″の一つかもしれない。

心の案内所 2007.7


心の案内所

 舞台は海士町観光協会。私は観光協会の看板を新しい看板に取替える作業をしていた。新しいキャッチフレーズは「心の案内所、海士町観光協会」。実はこのキャッチフレーズを考えたのは私である。

 私がいったお寿司屋さんの看板に「心をにぎります」と書いていた。普段寿司屋なんかに一人で行かない僕がなんとなく入ってみる気分にさせた。来日一、二年目の僕だったら絶対に入らないだろう。だって、心をにぎちゃうんだよ!いっぽう間違えたら死ぬかもしれない。でも寿司屋に入ってみると、何百の言葉で表せない、気持ちをその「心をにぎります」という言葉に入っているということを実感した。

 そこで私が提案したのは、「心の案内所」心からあなたの心に海士町を案内することがその意味である。例えば心の案内所がこんな風にお客様に海士町を案内する。

 お客様が「海士町に行きたいけど、どんな民宿がいいですか?」と聞かれたとき、

 私はこう案内する。

 お客様、携帯をつながる民宿と携帯をつながらない民宿、どちらがよろしいですか?

 というのも、あまりにも、便利になった世の中では海外いっても電話が繋がる。せっかくゆっくりしたいと思っていったのに、

 “今ちょっと、大丈夫ですか?と電話がかかってくる。我々が、“今休みだから駄目”ととてもいえない性格である。

でも海外にもない素晴らしい条件が海士町にはある。電話が繋がらない民宿もある。電話がかかってくる心配もない。

 それに、携帯が繋がらなかった。言い訳もできる。今海士町では携帯がつながらない民宿が大人気である。

  心の案内所の職員はお客様にいかによいサービスを提供するために、宿泊研修を行っている。民宿や旅館を比べるのではなく、それぞれの宿泊の特徴を掴みお客様に一番あった宿泊を提案することが目的である。

 観光客が年々減っていく一方で、民宿の経営も厳しくなっている。そこでいうまでもなく、観光客を増やして欲しいというのは、宿泊を経営している皆が一声あげていうことである。

 そこで、わが観光協会が考えたのは「儲かる旅」訳して「モウタビ」というコンセプトである。旅行するということはお金がかかるといイメージがある。でも海士町では金儲けをしながら観光できる。

 海士町で使うお金は「海士ネー」アマネーという。アマネーを手に入る方法はいくつかある。例えば、観光タクシーの運転手に自分がなる。子供のころ、一回なってみたかった、タクシーの運転手さん。それに、アマネーも発生する。一石二鳥である。

 民宿、旅館、ホテルでも働くことができる。民宿であれば、民宿のおばちゃんに料理作りを手伝うことができる。もぐって、あわびやサザエを持ってきたら、それもアマネーに交換することができる。ホテルだったら、ふとんしき、部屋の掃除、皿洗い、トイレ掃除、様々な仕事がある。その全てがアマネーの対象になる。またキンニャモニャセンターでも働くことができる。例えば船の待ち時間一時間、二時間、キンニャモニャセンターの掃除をする人と一緒に、掃除することができる。それで殆ど、お土産代を賄うことができる。

 また季節ごとにも、イベントごとにも、アマネーを儲かることができる。例えば、夏にやる、ビアーガーデンのお手伝い、これが若者には大人気である。また、ヴォーキング大会のお手伝い、俳句大会のお手伝い、この全てがアマネーの対象になる。

 また自分が何かの特技をもっている。新しいアイディアをもっている。それをどう海士町につながる、どう海士町に役に立つかを発表するだけで、アマネーを手に入れることができる。

 海士町は観光地といっても、そんなにたくさんの観光場所をあるわけでもない。そのこともお客様とちゃんと伝える。それでもたくさんの人が海士町を訪れる。一つはアマネー。もう一つは人である。

 それは、後鳥羽上皇でも、小泉八雲でもない。実はその歴史を説明してくれる「人」である。私に、後鳥羽上皇がいつ生れたとか、小泉八雲がいつ海士に来たかと聞いても分からないけど、それを説明してくれる、滝中じっちゃんの誕生ならちゃんとわかる。どこに住んでいて、どんな人ということもお客様に詳しく説明できる。

 だから、一回きたお客さんは自分が海士町で好きになった、民宿のばーちゃん、故郷案内人のじっちゃんに会いに何回も海士町を訪れる。

 また、日本円には利子がつかないけど。アマネーには「ありがとう」という利子がつく。例えば、自分が設けた、アマネーを「心の案内所銀行」で貯金すれば、それに利子がつく。普通は、時間が長くなると利子も高くなるけど、アマネーの場合は時間を短ければ、利子は高くなる。条件は引き出せるのは、海士町心の案内所窓口だけ。だから、海士町に1年後いくよりも、6ヶ月後にいったほうが、利子がたかい。

 心の案内所のもう一つのお決まりは、海士町を訪れる人、誰でもサンキューレターを書かなければいけない。サンキューレターは、誰が、誰に書いてもOK。サンキュウレターを書いて、心の案内所にもってきただけで、1アマネーをもらえる。例えば、お世話になった、民宿のおばちゃん、ふるさとう案内人にサンキューレターを書く人が多い。でも

自分を旅行に誘った友達、旅行を連れていった両親、生れて初めて、自分と一緒に旅行した自分の息子に、サンキューレターを書く人もいる。

 親から一回も怒られたことがなかった子が、ホテルで一緒に働いたおばちゃんに怒られ、怒られることの素晴らしさしり、大切さをしり、それに感動して、そのおばちゃんに怒ってくれてありがとうというサンキューレターを書いた人もいる。メールやパソコンがありあふれた時代で自分のお父さんが、こんな文章書けることがはじめてしったとか、自分のこどもが今こんな漢字を書けるようになったことをはじめて発見したとか、自分のこどもから始めて手紙をもらったとか、こんな素晴らしい、チャンスを与えてくれてありがとうという、ハガキも心の案内所にいつも届く。

 心の案内所と世界が二つのキーワードでつながっている。それは「ありがとう」と「暖かい心」

 あああ。暖かい、暖かい。

  昨日は窓の障子を閉めないまま寝たせいで、朝日を満遍なく顔にあっていた。

あぁ。。。 もう8時だ。遅刻する。

久しぶりにみた素敵な夢。

 

お正月の本当の意味 2007.1


 今年で私は日本に住んで五年目になります、今まで五回、日本でお正月を過ごしたことがあります。今までは日本のお正月にどんなことをするか、どんな習慣あるのかを真剣に考えたことがなかった。学生時代そんな暇がなかったと言っても過言ではない。学生時代、ほとんどのお正月はアルバイトのところで迎えた。そういう環境の中で日本のお正月を肌で感じるチャンスがなかった。そのときは、玄関のところに置いてある、竹と松で作った飾りを何かを考えることもなかった。それ以外は日本のお正月のことは学校の日本語の授業でたちさわったぐらいでした。本に書いていたことだけで、日本のお正月は素晴らしい、もっと探ってみたいという気持ちには慣れなかった。でもひとつだけ確ことをわかっていました。それはお正月というのはどこの国の人にもどの民族の人にもとても大事な行事だということ。それは私が子供のころのお正月の懐かしい思い出をたくさんもっているからです。

 今回たまたまですが、海士で門松つくりに参加することができました。その小さなことをきっかけに日本のお正月の素晴らしさを体験することができました。毎年お正月に海士町の役場とキンヤモニャセンターの前に大きい門松を作ります。外国人だったら、門松のことを知っている方が非常に少ないと思います。名前を知っていても、何の目的で作るのか、それで何を表すのかを考えたこともないかもしれない。私もそうでした。そこで門松を作りながら門松の歴史的背景を知ることができたのです。

 日本のお正月には年神という神様がいるのです。お正月に家にくる神様を迎えるために門松を作るのです。ではミサイル見たいになっている、三本の竹は何ですか、私は一緒に門松を作ったおじいさんに聞きました。この一番長い竹は天空を表す、二番目に長いのは人間性、一番短い竹は地球を表すのです。その三つの竹をわらロープで結ぶ。一日かけて立派な門松を出来上がりました。たった門松だけでこんなに素晴らしい文化が隠れてあることに驚きました。それでほかのお正月の習慣にも触れて見たいと思いました。今年のお正月は私が四年間お世話になった、九州の別府で過ごしました。大晦日の夜は学生時代私のホームズテー先だった、日本の両親の家で過ごした。お正月のお節料理食べるのもお屠蘇を飲むのも初めのことでした。「屠蘇」とは、「蘇」という悪鬼を屠(ほふ)るという意味である。簡単にいうと一年のつらいことを忘れて迎える年を明るく、健康で過ごせるようを願って、飲む酒。

お節料理にも深い意味があることを初めて知りました。たとえば、卵巻はたくさんのメデタイ日をあるように食べる、かまぼこは祝賀であるようにたべるもの、黒豆は一年健康で過ごせるようにと食べるものです。日本酒を飲みながら、ホームズテー先のお父さんからいろいろ日本のお正月の深い意味を知ることができました。そこで一番印象に残ったのは、“正月”という言葉の意味。それは“正しく生きる年”今まで自分が間違えていたところをやり直せるために神様が与えたチャンスがお正月です。

 その意味を理解して正月を迎える人が何人いるだろう、もちろん、忙しい日本人には門松を作る暇がないと思います。つくるよりはコンビニやデパートで手軽に買えるものです。お節料理もそうです。現在お節料理はインターネットでも買える時代です。年末の大掃除も業者さんに頼んでやってもらえることができます。やはりお正月といって、前もって準備するものなくなっている。私の国スリランカのお正月は日本と違って四月14日にある。私は子供のころのお正月のたくさんいい思い出がある。子供のときはお菓子いっぱい食べられるし、お年玉や新しい服もらえるからうれしかったけど、今から考えると、お正月にはそれより深い意味があった。

 それはお正月というのも一つの社会教育だったからです。私たちは、大掃除に手伝わなければなりません、またお菓子や料理つくりにも手伝います。そこで、家の道具を使いこなせるようになる。またお母さんが、料理の説明をしてくれる。私たちには自然にお正月の習慣を学べる。お正月の日に日本と一緒で家族の皆で、新しい服を着てお寺を参拝して、帰ってきて皆で伝統的な料理やお菓子を食べる。その日のお父さんとお母さんがいつもと違って私たち一緒にお正月の遊びなどして時間を過ごす。

 日本のお正月もきっとそうでしょう、家の皆が集まって、一緒に行動するのはお正月です。そうやって皆でゆっくり時間を過ごすことによって家族の絆を強くなる。それは現代の社会がもっとも望んでいるものです。お正月から一週間もたたないうちにあった、自分の妹を殺し切断した事件とかを見ると、家族愛というものがどこか遠く行っていると思います。

  今回初めて門松を作られたことをすごく誇りに思っている。なぜなら、私も今まで経験したことなかった、日本の素晴らしいお正月文化に触れるきっかけになったからです。何よりも私も忘れかけていた本当の意味のお正月のことを考える時間を与えたからです。私が思う本当の意味のお正月は家族の愛嬢を深めるために神が与えた素晴らしいチャンスです。今の私たちの社会にもっとも足りないものもその愛嬢ではないでしょうか